武蔵丘陵森林公園の桜1 |
続千載集から二条(藤原)為世(ためよ)の歌。
行くさきの 雲は桜に あらはれて
越えつる峰の 花ぞかすめる
(意)行き先に雲と見えたものは、やがて桜として立ち現れ、振り返れば、越えて来た峰に霞んでいるのが花なのだ。
二条為世は御子左家の家長で曾祖父の藤原定家以来歌道の家として続いてきました。しかし藤原定家の子供の藤原為家の時代に跡目相続に関してトラブルを起し為家の子供たちが二条家・京極家・冷泉家と三家に分かれました。それぞれ歌道の家として残りましたが、二条家・京極家は南北朝時代には滅びてしまい、冷泉家だけが現在でも上冷泉家・下冷泉家・入江家の三家が残っています。上冷泉家に藤原定家に関する古文書を中心に多くの古文書が残されていて、近年において学者や専門家の調査により多くが国宝や重文に指定されていて冷泉家時雨文庫として毎年少しづつ一般公開されています。時雨文庫によって新たに発見された家集なども多く残されています。歌道の家として勅撰和歌集の編纂を命じられた時に備えて保管してきたものだと思われます。また藤原定家の日記「明月記」は資料の少ない時代の貴重な歴史的資料が豊富に含まれていて歴史を塗り替えるような発見もありました。
なぜ時雨文庫が残されてきたかというと、上冷泉家は明治新政府に従って東京へ行かずに京都に残ったためと言われています。下冷泉家や入江家には火災などにあってほとんど資料は残されていないようです。下冷泉家には藤原為家の側室だった阿仏尼が「十六夜(いざよい)日記」を書き残しましたが自筆の十六夜日記は下冷泉家に残されました。十六夜日記とは阿仏尼が実子の冷泉為相のために播磨国三木郡細川庄の所領争いで為相の兄である二条為氏を鎌倉幕府へ訴えた時の京都から鎌倉までの旅日記と鎌倉滞在中の出来事の二部構成となっています。為相・為氏の兄弟の父親である藤原為家は当初は細川庄を二条為氏へ譲ると決めたのですが、後に冷泉為相に譲ると訂正したのです。当時の公家法では「悔い返し」は認められませんでした。しかし、鎌倉幕府の定めた武家法(貞永式目)では悔い返しは強く認められていました。そのために鎌倉幕府へ訴え出たわけです。「悔い返し」とは一度贈与したものを贈与主が思い返して譲り変えることです。この訴訟は冷泉為相の勝ちとなり細川庄は冷泉家のものとなりました。冷泉家は室町時代中期に上・下冷泉家に分かれ、戦国時代になり上冷泉家は駿河の今川家の食客となり、細川庄を相続した下冷泉家は細川庄に移り住み城を構え公家武将となりました。しかし細川城は三木城の東北に当たり織田信長の毛利攻撃の先導として木下藤吉郎を将とする織田軍の攻撃を控え、三木城に籠る別所長治は下冷泉為純に味方をするように呼びかけましたが味方をしなかったために別所勢に攻められ落城し当主は自刃し息子も城から落ちる途中で殺されました。下冷泉家は京都に残っていた次男が継ぎました。明治維新となり上冷泉家は伯爵となり下冷泉家と入江家は子爵でした。入江家は理解できますが、下冷泉家への差はなんなのかはよく分かりません。
コースがとてもよく整備されていてお散歩に最適ですね!
桜の時期は特にいい感じです。
桜のジュータンの上でマリアンチャンでしょうか、絵になっていますね
久々に拝見してうれしいです。
昨日4日の天声人語ですが、「頭髪の外見より中身を磨け」とのお話、言ってほしいことを書いてくれました。拍手!
さすが国営公園だけあってとても綺麗です。ルイ君もマリアンちゃんも元気に歩けます。ルイ君は特に他の人から可愛いと言われると大変興奮して喜ぶワンちゃんです。マリアンちゃんは愛想が良いのですが知らない人に撫でられるのが嫌いな子です。
朝日新聞の天声人語は最近本当にレベルが上がりましたね。