一碧湖と河津三郎祐泰の血塚 |
与謝野晶子のうた
静かなる 十二連島 見るままに
所を移す 鴨の連島
一碧湖の朝:
河津三郎祐泰の血塚:
河津三郎祐泰は伊東祐親の嫡男で父の所領河津を継承して河津三郎を名乗り、智勇優れた武士と伝えられています。曽我物語に拠れば、安元ニ年(1176年)に頼朝を主賓として東国の武士を集め伊東祐親が主催した伊東奥野の巻き狩りの最終日に余興の相撲大会が行われ、21連勝して当代随一と称された相模の俣野五郎景久を三番連続で倒して名を馳せました。奥野の巻き狩りが終わった直後に久須美荘南端の赤沢の谷を抜け河津に向う伊東祐親と河津三郎親子の一行を工藤祐経の郎党で弓の名手と知られた大見小藤太成家と八幡三郎行氏が刺客として街道を見下ろす「椎の木三本」から遠矢を放ち、目指す祐親は討ち洩らしましたが八幡三郎の矢を受けた嫡男河津三郎の命を奪いました。妻の満劫は舅の祐親の指示に従って遺児二人を連れ、身重のまま小田原の曽我祐信に再嫁しました。20年後に河津三郎の二人の遺児が富士の裾野で祐経を殺し、兄弟の兄・十郎祐成の愛人虎御前が語り継いで「曽我物語」の原点になったのです。河津三郎が暗殺された赤沢の旧道には河津三郎の血塚が残り、墓所は河津の所領跡に建つ河津八幡の横と伊東の東林寺に残されているので河津三郎の遭難の地に血塚を誰かが作ったのでしょう。矢を射かけた場所の「椎の木三本」はこの血塚の真上100m程のところに昭和30年頃まで巨木としてあったそうです。河津三郎血塚の前の道は平安末期には既に通じていた伊豆古道の東浦道で、江戸時代には下田街道として整備された旧道で現在は使われていない道となっています。東浦道はもう少し北の宇佐美に2Km程古道の面影を残して保存されているそうです。
P.S.
☆維新、石原氏「東軍」が役員人事“制圧” 25日議員総会は波乱含み
これから民主党を含めた烏合集散が繰り返されるのでしょう。日本維新は難しい舵取りとなります。旧世代と新世代の主導権争いでしょうね。民主的な議会運営は最後は数です。
☆日露関係 対中牽制に生かす工夫を (2ページです)
ロシアと関係を修復しないと日本は追い込まれます。メリットも大きいのです。ここは大決断が必要です。
☆国債保有、海外勢が過去最高 9月末86兆円
ここは安倍政権は思い切って特別国債を考えるべきです。この特別国債は亀井元金融大臣が大臣時代に唱えた話です。相続税を免除する金利を0とする国債です。金持ちの資金を掻き集める国債です。私は良い考え方だと思います。
☆心臓手術「心配掛けた」=天皇陛下、79歳に
私は天皇制度には少々疑問を持っていますが、今上天皇御夫婦には頭が下がります。日本のためだけを考えていられるのでしょう。健康問題は心配です。いまの皇太子の時代となると大変ですね。皇室典範の改正問題など色々な問題があります。
シゲさん、温かいお気遣いありがとうございました!
やっとブログも再開できるようになりました♪
シゲさんのお写真を拝見させて頂いたら
早く撮影に行けるようにならなきゃ! と思いました (^^)
水面に映る姿、美しいですねぇ~!
私が訪れた時の京都は場所によっては葉先が,枯れているところがありました。
森元首相がロシアに派遣されるようですね。少しでも進展があればよいのですが。
一碧湖の朝、すがしい空気が伝わります。ススキの絵には、うなってしjまいました。
早速やってきました。
素晴らしい写真ばかりに、しばし時を忘れてしまいました。
私が河津町を訪れたとき。亡霊が出たかのような驚きようで
教育委員会の方が詳しい資料を用意してくださいました。
河津の一族は平氏に与したため、そこ、河津町には子孫は一人も残っていないのです。お寺の住職が河津名でしたが、こちらは筋違いの河津ということで、楽しい祖先の地でした。また、ゆっくり訪ねて見たいと思っています。
実に好い写真ばかりです。
余りに綺麗なので、少し写真を借りていきます。
お元気で、
今日もスマイル
無理をしない様にして下さい。寒くなってきています!
京都は本当に奥が深いですね。真冬の京都にも行ってみたいのですが、寒そうなので・・・!
そちらは寒いでしょうね!今年は雪が多いので地方自治体の予算も大変でしょうね。
一碧湖は何時行っても美しいと思います。
河津へ行かれたのですか。次回は河津桜の時期に行かれると良いですよ。非常に混みますが菜の花とのコラボは綺麗です。
写真はどうぞご自由にお使い下さい。りサイズ前の画像も送りましょうか?