千鳥ヶ淵の夜桜2 |
千鳥ヶ淵は御濠の名前でここは正式には千鳥ヶ淵緑道と呼ばれるようです。ソメイヨシノが巨木となって素晴らしい桜並木です。桜が大きく千鳥ヶ淵に伸びています。向かい側は北の丸公園です。江戸時代は北の丸に江戸城の城郭はありませんでした。昔は代官屋敷が並び江戸代官(江戸総代官あるいは関東郡代)配下の代官の役宅があり、また大奥で年を取ってしまった女性達の引退後の屋敷などがありました。また将軍吉宗以降創設された御三卿のうち田安家と清水家の屋敷がありました。一ツ橋家は北の丸の田安門を出た場所に屋敷を構えました。北の丸の名前は昭和になって付けられました。それまでは代官町でした。
後拾遺集より能因のうた
桜咲く 春は夜だに なかりせば
夢にもものは 思はざらまし
(意)桜の咲く季節は、夜さえ無ければ、夢の中でまで思い悩まずにすむだろうに。
能因は俗名橘永愷(ながやす)で文章生(もんじょうしょう)でした。文章生とは平安時代の国家試験合格者の事です。出世は藤原氏でなければ出来ない時代でした。一応中級官吏まではなれるチャンスがあります。昼間に見た桜が、夜になっても心を占め、夢の中にまで侵入して、千々に思いを乱すと言う、心の中の夜桜の幻想が心を惑わすのでしょう。
そもそも光がない時代でした。夜の桜を見るとしても月明かりだけでしょう。日本も明治時代の文明開化で銀座に初めてガス灯がついて夜が明るくなったのです。それまでは原則として夜間の外出はしませんでした。江戸時代でも夜になると各町にあった木戸が締められて出入りは出来なくなったのです。出入りする場合は木戸番に心付を渡して木戸を開けてもらったのです。他の方法は木戸を通らなくて済む川船で移動するしかありませんでした。