福島市 花見山3 |
福島市は現在は県庁所在地として30万人弱で福島県では郡山市、いわき市に次いで第3位の人口です。県庁が福島に決められるまでは人口は5千名もないような街でした。上杉景勝が会津へ移封後、南進を意図している伊達正宗に対する抑えの城として福島城へ本庄繁長を城代として入れました。関ヶ原の戦い後、伊達政宗は徳川家康からみだりに軍勢を動かすべからずとの命を受け、岩手山城へ引き返しましたが、上杉領への侵略を意図して、家康の下知をまたずに慶長5年10月6日、本庄繁長が立て籠もる福島城へ押し寄せました。
本庄繁長は上杉謙信に対し何度も反乱を起し武田信玄と組んで独立の様相まで示した越後を代表する猛将でした。上杉謙信の手を何度も焼かせる存在でしたが謙信は本庄繁長を殺しませんでした。謙信にとっても本庄繁長の越後を代表する戦闘能力が必要だったのでしょう。本庄繁長は上杉家の会津移封にしたがって会津へ行き徳川家康の会津征伐の時に関ヶ原の戦いで東軍大勝利の後で伊達政宗が上杉領に大軍で侵攻してきた時に福島城代として梁川(やながわ)城代の須田長義や付近の上杉方城将の援軍を得て6千の軍勢で2万の伊達軍から福島城を守りぬき、劣勢の戦力で福島城の攻防戦から福島城外の松川の野戦で伊達政宗軍を大敗走させました。伊達政宗も10騎の近臣に守られてやっと戦線を脱出するほどの大敗戦でした。
戦闘能力は優れていても裏切る可能性のある武将を一番厳しい戦いの司令官にするほど上杉家は追い込まれていたのかも知れません。直江兼続は上杉軍の主力3万を率いて最上義光の山形を攻めましたが、途中で関ヶ原の西軍敗北を知り、勢いづく最上・伊達勢の中を難戦の末に庄内から引き上げてきました。従ってこの時は上杉景勝には予備兵力は殆どありませんでした。上杉景勝と直江兼続は本庄繁長を信用して彼に上杉家の運命の全てを賭けたのかもしれません。本庄繁長も武士としての名誉を賭けた戦いだったのでしょう。この戦いは「松川合戦」と呼ばれる上杉家を救った戦いで「北の関ヶ原」とも言われた大会戦でした。この時に上杉景勝は大軍に見せかけ旗本だけを引きいて福島城の後詰の旗を立て伊達正宗を牽制をしました。上杉家では松川の戦いの勝利直後に各地の武将を集めての戦後処理を評定し直江兼続は抗戦継続を唱え、本庄繁長は講和を勧めました。上杉景勝は講和を選択し、本庄繁長を徳川家康の元に送り終戦工作をした結果、会津120万石から直江兼続の領地だった米沢30万石に減俸されましたが上杉家は残りました。本庄繁長は1万石でしたが米沢移封により3300石となりましたが上杉家の重臣として残りました。須田長義は2万石でしたが6600石になりました。須田長義は信濃国の現在の須坂市の臥竜公園にあった須田城の代々の城主だったと言われています。北信州は武田信玄が侵略をしてくる前は越後の長尾氏の勢力範囲でした。須田長義は福島城外の松川の戦いの時は23歳だったと言われていますが用兵は見事でゲリラ戦法で侵攻してきた伊達軍に大打撃を与えました。須田長義の知力と本庄繁長の武力に上杉氏は救われたのでしょう。
お山のサクラは美しい彩りでとてもきれいですね~
百花繚乱 楽しませていただきました。
やはり桜は綺麗ですね。特に福島県の桜は格別です。原発事故さえなければ良かったのですが!
花見山に行かれたのですね。
私は行こうか悩んだのですが、結局止めてしまいました。
随分前に何度か足を運んでいるのですが、そのときは、まだここまで観光地化していなかったので、のんびり歩けたのですが・・・今は観光バスまででているようですね。
あまり有名でない、自分の好きな場所をまた探さなくてはならなくなったようです。
私も昔は車で花見山の中の駐車場へ車で楽々入れる時代から行っていますが、観光バスが入る様になってしばらく行きませんでした。昨年から新幹線で行くようにしました。昔は、花園の中の木の下にカメラマンが入ってしまって撮影が出来ないで困ったものです。