プラハ市内1 |
1968年「人間の顔をした社会主義」を目指す民主化運動である「プラハの春」がソ連率いるワルシャワ条約機構軍によって弾圧された「チェコ事件」が起きました。1968年8月20日午後11時(現地時間)ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍約20万は、チェコス ロバキア国境を突破、翌21日午前プラハ市を制圧しましたソ連軍が、8月21日プラハ市に侵入した時、大統領府はワルシャワ条約機構軍に制圧され、主要閣僚のほとんどをソ連軍に逮捕され、スボボダ大統領は孤立していました。スボボダ大統領は、22日午後にソ連大使を大統領府に呼び、モスクワでのソ連首脳との直接交渉を要求 し、それに同意させました。23日にモスクワに到着し首脳会談は、ソ連、ポーランド、東独、ハンガリー、ブルガリアの5カ国の代表と、27日まで続き72才の老大統領にとっては大変な忍耐と労苦を必要とするものでしたが、彼は、一歩も退くことなく勇敢に論陣をはりました。スボボダ大統領の要求は・・・
1.ドブ チェク党第1書記、ほか改革派、進歩派の閣僚の身の安全の保証と即時釈放、及び首脳会談への出席。
2.ソ連軍のすみやかな撤退とチェコスロバキアの主権回復。
会議は5カ国の首脳たちが、たった一人のスボボダ大統領を怒鳴りつけ責任問題の追及から始まりましたが、一歩もひかぬ彼のねばりに負け、逮捕していたドブチェク第一書記兼首相をはじめ改革派、進歩派の閣僚の釈放を実施し、首脳会談への出席を承認しました。このことは、実質的にチェコスロバキアの改革派政権を承認させたのと同じ意味をもちます。2点目のソ連軍のすみやかな撤退は、チェコスロバキアが今後も、ワルシャワ 条約機構(ソ連との軍事同盟)とコメコン体制(ソ連の経済圏)にとどまる事を条件に、これも承認させる事に成功しました。8月28日、プラハ市から銃声の音が消え、ソ連軍の動きがとまりました。改革は、一時中止になりましたが、チェコ側のねばりで、ソ連側から譲歩を引き出す事に成功する事ができたのでした。9月2日から、ワルシャワ条約機構の5カ国軍の撤退が始 まり、9月中に完了しました。プラハ市民の1ヶ月以上にわたった、長く悲しく犠牲の大きかった戦いは終わりました。
スボボダ大統領の活躍でモスクワから解放されたドブ チェクは党第一書記の職に復帰をしましたが、やがてワルシャワ条約軍の強い圧力により、ソ連主導のチェコスロバキア共産党の保守派により第一書記を解任されました。以前は改革派の一人とみられていたグスターフ・フサーク副首相がソ連の意図によりチェコスロバキアの共産党第一書記に就任して実権を握り「正常化体制」と言う名目で改革派の弾圧を続け、チェコスロバキア国家保安庁(秘密警察)を使ってソ連に最も忠実な同盟国として振る舞おうとしたのです。フサーク体制は1989年のビロード革命まで続きました。長い暗黒時代でした。その後1985年ソ連のゴルバチョフ書記長の登場でペレストロイカが始まり東欧は大きく変わったのです。チェコスロバキアもペレストロイカのお陰でフサーク体制から民主化への道を歩み始める事が出来ました。
P.S.
☆【お金は知っている】アベノミクス、今こそ再出発を…狂った「羅針盤」廃棄せよ (2ページです)
まあ無理でしょう。それだけの頭と度胸は安倍にはありません。財務官僚に丸投げするだけです。第1の矢(大胆な金融政策)、第2の矢(機動的な財政政策)も成功するかに見えましたが難しい状態になっています。第3の矢(民間投資を喚起する成長戦略)は最初から失敗する事が見えるほど論外でした。政府の言っていることは嘘ばかりです!アベノミクスが中途半端で終わる事は日本にとって大きなダメージとなります。それならやらない方がまだマシだったかもしれません。
非常に、私には意味の深い事件でした。
1969年に、初めてソ連の確率論研究者と
日ソシンポジュームを企画していたのです。
その準備段階で起きたソ連のプラハ侵攻。
日本の確率論グループで、大変な議論になって
ソ連への抗議を込めて、シンポジュームは止めるべきだというのと
ソ連を閉ざしてしまうのは、かえって良くないという意見で
大変な議論になり討論、討論の日が続いたものです。
私は、国際交流は閉じるべきではないの方に賛成して
1969年にハバロフスクのシンポジュームに、博士課程の学生で参加講演したのです。
実に、思いの深い会議でした。
プラハは、一度訪れたかった。
数学以外の用事で旅などすることがなかったので、
行かずじまいです。
ソ連の中は、結構何回か行っています。
どんなことがあっても、交流を閉ざしてしまうのはいけないことだと
今でも、そう確信しています。
今日もスマイル
プラハは素晴らしい街でした。