河津バガテル庭園の秋バラ1 |
今朝の伊豆高原の初日の出です。伊豆大島から上がる太陽です。
正月と言っても多くの店が開いています。どうも正月気分になれません。TVは年末から正月にかけて馬鹿の様な番組ばかりで少しも面白くありません。現在伊豆高原にいますが、本をどっさりと持ち込んでいます。昨夜はNHKで小澤征爾とアルゲリッチのピアノでベートーベンの合唱幻想曲を初めて聴きました。ほとんど演奏されない曲なのでぜひ聴きたいと思っていた曲でした。素晴らしい演奏でした。芸術を賛美する内容で、交響曲第5番の「運命」と同時期に作曲されました。交響曲第9番の「歓喜に寄せて」と共通点が見られ、第9の「合唱」の原型ともみられ、実験的に作られたとされている曲です。そのあとでほんの一部だけ放送されたのですが五嶋龍のヴァイオリンでチャイコフスキーのコンチェルトを聴きましたがメリハリのある歯切れのいい演奏でした。生で聴いてみたいソリストです。お姉さんの五嶋みどりさんの演奏も素晴らしいのですが弟の龍氏の演奏は歯切れが良く素晴らしいです。毎年数回しかクラッシックの演奏会に行っていないので、今年は出来るだけコンサートへ行ってみたいと思います。やはり生で聴くクラッシックはCDとは違います。
11月1日の伊豆の河津町の河津ガバテル庭園の秋バラです。カメラはニコンD800と24-120mm&70-200mm&105mmマクロです。
万葉集から大伴家持のうた
新(あらた)しき 年の始めの 初春の
けふ降る雪の いや重(し)け吉言(よごと)
(意)新たに巡り来た一年の始まりの初春の今日、この降りしきる雪のように、つぎつぎと重なれ、天皇陛下を言祝(ことほ)ぐめでたい詞よ。
詞書に「正月一日、因幡の国庁での宴の歌」と書かれています。この年天平宝字三年(759年)の正月一日は立春にあたり、しかも新年の降雪は豊作を予兆する吉事であったので、三重のめでたさが籠められているのでしょう。大宝令及び養老令に定められた「儀制令」では「凡そ元日には、国司皆僚属(れうぞく)郡司等を率(ひき)ゐて、庁(ちやう)に向かひて朝拝(でうばい)せよ。訖(をは)りなば長官賀受けよ。宴設(まう)くることは聴(ゆる)せ」と書かれています。年の初めには全国の国庁では国司を中心に国内の役人がこぞって集って都へ向かって朝拝をして国司の賀を聞いてから新年の宴会となったのでしょう。
この歌は万葉集の一番最後の歌です。大伴家持42歳の歌です。この歌の後では家持は一首も歌を残していません。それまで大量の歌を詠んでいたので、非常に不思議だと言われています。私は大伴家持はこの最後の歌の後も歌を詠ったと思います。何となく理由は分かるのですが大伴家持が亡くなってから誰かの手によって失われてしまったのでしょう。藤原氏の台頭により旧氏族はだんだんと中央から追い落とされていた時です。古代の天皇の親衛氏族だった大伴氏を率いる家持も何度も左遷の憂き目に遭いましたがその度に生き残ってきました。大伴氏は藤原氏の台頭を快く思っていなかった橘諸兄(左大臣)系でした。大伴氏は藤原氏によって圧倒されてきたため、一族の団結と軽挙妄動を諌めるために有名な長歌「陸奥国より金を出せる詔書を賀く」を詠ったのでしょう。その長歌の中の1節が「海ゆかば」として第2次世界大戦時には第2国歌の様な役割を果たしたのです。歌の内容は陸奥国からの金の産出を祝う歌の中に同族だった大伴氏と佐伯氏に対して教え諭した歌ともいえるのです。私達大伴氏や佐伯氏は藤原氏とは出身が違うと歌っているのです。つまり書かれていない事を言葉で言えば、藤原氏はどこの馬の骨だか分からないが私達大伴氏と佐伯氏は古代から天皇を守り続けて多くにの犠牲を払ってきていると歌ったのです。藤原氏の天下へのアンチテーゼだったのでしょう。さすがに藤原氏も万葉集までは手を付ける事が出来なかったのでしょう。当然に当時の豪族たちは中臣(藤原)鎌足が何者なのかを知っていたはずです。それを言えば殺される事になったのかも知れません。
「陸奥国より金を出せる詔書を賀く」より抜粋 大伴家持
海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て
丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に
流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は
人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず
大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ
梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き
朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り
我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる
大君の 御言のさきの 聞けば貴み
大伴家持は陸奥按察使鎮守将軍を兼任し、蝦夷の反乱で揺れていた陸奥に赴任しました。延暦二年(783年)七月、陸奥にあって中納言に任ぜられました。翌年二月、持節征東将軍を兼ねました。その後も陸奥で蝦夷征討計画に従事していたと思われますが、延暦四年(785年)八月二十八日に68歳で陸奥国で死去しました。その死後には大伴氏族の多くが関与した藤原種継暗殺事件の主謀者として名を挙げられ、埋葬を禁じられて生前に遡って除名され遺骨は息子の大伴永主とともに隠岐に流されました。この事件の根底にあるのは桓武天皇による平城京(奈良の都)から長岡京への遷都は反対する豪族が多かったと言う事なのでしょう。桓武天皇と藤原氏にとっては反対勢力は侮れない目の上のタンコブだったのす。藤原種継暗殺事件は桓武天皇と藤原氏にとって政敵弾圧の手段として徹底活用され、この事件により天皇家の外戚としての藤原氏の専制体制が確立をしたのです。忘れてはならない事は桓武天皇は天武天皇(大海人皇子)系ではなく、天智天皇(中大兄皇子)系の天皇でした。天武天皇系は称徳女帝が自分の一族(天武天皇系)を殺し尽くしてしまい、皇位継続者がいなくなったことにより光仁天皇(白壁王)が天智系の天皇として藤原氏の後押しで即位をしました。桓武天皇は病床で亡くなる寸前に大伴家持等の藤原種継暗殺事件の関係者全員を復位させました。藤原氏の独特な手法で政敵に陰謀による反乱の汚名を着せて滅ぼして、時間をおいて名誉を回復させるのは藤原氏の得意とするやり方でした。滅ばされていては名誉回復もありません。
万葉集も大伴家持が編纂をしたことは間違いがないでしょう。万葉集はかなり早い段階で成立をしていたはずです。政治的な理由から一時は世の中から消されていた時期があったのだと思います。しかし古今集の「仮名序」と「真名序」が万葉集の成立は平城天皇の御世としている事は大伴家持の名誉の復権とは無関係ではないのでしょう。ちなみに平城天皇が初めて践祚(せんそ)と即位を分けた天皇と言われています。践祚は天子(天皇)の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われます。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位と言います。践祚は八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣の三種の神器を継承する(剣璽等承継の儀)事です。
P.S.
☆不要ながん治療が患者を殺す?がん診断の9割は間違い?治療やめたら治る例も (3ページです)
私も同感です。手術で癌を他の部位に飛ばしてしまう事もあるのだそうです。手術をするべきかは誰が判断をするのがベストなのでしょうか?
☆NYで大みそかのテロ計画摘発=IS合流目指した男訴追
さすがテロになれたアメリカのFBIと警察です。今年5月の伊勢志摩サミットが心配です。警備の厳重な伊勢志摩で起きる事はないでしょうが、手薄な東京や大阪が狙われる可能性があります。
☆前代未聞…日銀黒田総裁は“ブン投げ”辞任の可能性もある
可能性はあるでしょうが、安倍が辞めさせないでしょう。黒田総裁が辞めれば安倍にとって致命傷となります。日銀は何処へ行くのでしょうか?今年は大変な年になります。
綺麗なバラに出迎えてくださり今年一年が
明るく過ごせそうです、よろしくお願いします
五郎
私も、大晦日の夜は20時からのNHKEテレのクラシック番組と21時からのBS朝日、辻井伸行さんのピアノ演奏番組を見ておりました。
このところ、大晦日で紅白歌合戦をみた記憶はありません。
初日を撮ろうと11時過ぎにはもう寝てしまいました。
なにしろ高圧電線、鉄塔の街で、どちらの方向にいくか迷いましたが! 本年も綺麗な写真やら、ブログを楽しみにしております。宜しくお願いします。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。いい年になるようにしないといけませんね!
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
伊豆の家にはBSの映るTVは1台だけで女房と娘に占領されていて紅白を見ていたので、自分の部屋で地上Dを見ていました。私も十数年紅白を見ていません。何か小学校の学芸会の様で見ていると自分の心が貧しくなるように感じます。
伊豆高原からみた初日の出がとても美しく撮れていますね。お天気も良く暖かいお正月で過ごしやすかったです。
よき新春をお迎えのことと、お喜び申し上げます。
新年にちなんで京都の舞妓さん、芸妓さんの写真をアップしました。
合わせてマーラーの交響曲3番を生演奏で聴いた感想を書いてみました。
ご笑覧いただければ幸いです。
本年もよろしくお願い申しあげます。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
京都の舞妓・芸子さん特に芸子さんは綺麗な人が多いですね。
マーラーの交響曲は聞いていると疲れてしまい最後まではなかなか聴く事はありません。