北区 名主の滝公園の紅葉1 |
「名主の滝公園」は区立公園です。京浜東北線王子駅から10分ほどのところにある王子稲荷神社のそばにある公園で、人があまり訪れない穴場の様な公園です。真夏の暑い時は涼むには最適な公園です。江戸時代に王子村の名主、畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を栽培して避暑のために一般に開放したのが始まりで、名前の「名主」はそこに由来すると言われています。場所は北区岸町で地名からわかるように昔は江戸湾の海岸線が入っていたのだと思われます。名主の滝公園の樹木は多くが海岸地帯に生える樹木なのだそうです。
小金井市から隅田川へとそそぐ石神井川は、北区王子付近では音無川とも滝野川とも名前を変えます。江戸時代には滝のように流れが激しかったことからその名が付いたそうで、王子七滝(名主の滝・稲荷の滝・権現の滝・大工の滝・見晴の滝・不動滝・弁天の滝)と呼ばれる7つの大きな滝があり、他にも大小多くの滝がありました。その七滝の中で唯一現存するのが「名主の滝」です。現在は、滝の水は地下水をポンプで汲み上げて水を流しています。公園内には名主の滝以外に小さな滝の男滝(おだき)、女滝(めだき)、独鈷の滝(どっこのたき)、湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)の4つの滝が再現されています。
万葉集から詠み人知らず
山川の 瀧(たき)にまされる 恋(こひ)すとぞ
人知りにける 間(ま)なくし思へば
(意)山の滝よりも激しく恋をしてると人に知られてしまいました。絶えず貴方を思っているので。
P.S.
☆「マイナス金利」でマーケットは大激震 「いま買っていい金融商品」はあるのか
私は安倍政権も日銀も「木を見て森を見ない」ようにしか見えません。完全に打つ手が無くなっているのでしょう。御用学者や評論家はヨイショをしていますが逆に日本経済に混乱をもたらしているとしか見えません。EUでも昨年にマイナス金利にしましたが混乱が深まったのです。何とか景気を回復しようとしているのでしょうが!残された道は無いのでしょう。まだ引き返す余地は少し残されていると思いますが!
☆黒田日銀総裁:緩和限界説「とても違和感」-必要なら新たな手段作る
この内容では良く分かりませんが、どう見ても景気回復への手段がなくなっていると見えます。日銀の仕事ではなく政府の仕事なのだと思います。そもそも円安になり株価が上がり不動産が上がり、市中へジャブジャブとお金を流し込めば景気は簡単に回復すると、頭の悪い安部に吹き込んだ人達の責任です。有り余った市中の資金はどこへ行くのでしょうか?今はまさに第2次世界大戦の前の様です。ある意味でマーケットは政治経済のリセットのために世界大戦を求めているのかも知れません。
☆マイナス金利という強烈な黒田バズーカ…一人で暴風雨に挑む「孤独な戦い」の限界 (3ページです)
私には黒田総裁はスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスの小説のドン・キホーテのように見えます。痩せこけた馬のロシナンテにまたがり風車へ挑みかかるドン・キホーテです。一人で政府の援護射撃もなく、気の毒だと思います。最高責任者の安部は何をしているのでしょうか?安倍の言っていることが支離滅裂です。国会の答弁でも強弁の屁理屈を並べています。薬を大量に飲んでいるので副作用なのか、あるいは抗鬱剤でも飲んで攻撃性が出ているのでしょう。薬がないと落ち込んでしまうのでしょう。
☆東証大幅続落、559円安 日銀緩和効果ほぼ剥落
これからも乱高下をするでしょう。日銀のマイナス金利も効果が無い様です。10年物の固定金利の個人国債の発行を見合わせる様です。マイナス金利の影響です。国債だけでなく自治体や企業が発行する債券も発行を急遽見合わせる事態が急速に進行している様です。マイナス金利ではなく日本経済へのマイナス効果が出始めているようです。海外では日本の経済の司令塔の大臣(甘利)の辞職で日本売りの雰囲気なのだそうです。
☆マイナス金利が抱えるアキレス腱 なぜ制御が難しくなるのか? (4ページです)
危険な最後の賭けに出たのでしょう。負ければ日本経済は大変な事になります。黒田総裁は追い詰められているのでしょう。私の心配が杞憂に終わってくれればいいのですが!
☆1月消費者態度4カ月ぶり低下、物価上昇見通し3年間で最低=内閣府
消費動向調査とは内閣府経済社会総合研究所が行う調査です。景気の動向を判断するために、半年後の消費者の意識の変化、暮らし向き、雇用の環境、収入の増え方、耐久消費財の買い時判断の消費者態度指数を公表しています、毎月行っている調査です。指数が50以上なら今後半年間の見通しは良く、50以下なら見通しは悪いと言う事です。今年1月は指数が42.5で、一般庶民は今後はかなり景気は悪くなると思っていると言う事です。
☆株安・円高のWパンチ!赤字に転落する企業が続出、「日本経済大不況」突入か
トヨタは減益、東芝は破綻? (3ページです)
トリクルダウン理論を安部に吹き込んだ張本人が年初めにトリクルダウンなんて有り得ないと言い出しました。トリクルダウン理論とは富裕層が経済的に豊かになることで、最終的には貧困層も豊かになり、全体に富が行き渡るという考え方で、アメリカのレーガン大統領が行った経済政策ですが結果は失敗をしました。さて、現在の日本ですが上の記事を読んでくれれば分かると思います。頭の悪い安部は自分の考えはないのです。誰かさん(竹中平蔵達の新自由主義経済学者たち)に吹き込まれたことをオウムのように口に出しているだけだったのです。国民は騙されているのです。しかしもう安倍には後戻りはできないでしょう。自己否定する事になりプライドの高い安倍は自分が沈むのならば日本を一緒に引きずり込もうとしているのかも知れません。今後は株も為替も大乱高下が続くでしょう。大きく右肩下がりとなります。
☆甘利明、黒すぎた政治活動…パチンコ・電力業界から巨額資金提供、業界利益優先に暗躍 (2ページです)
自民党の議員は多かれ少なかれ同じような事をしているのでしょう。一罰百戒で新しい議員の不埒な活動を縛る必要があるのでしょう。
☆「事実なし」が一転…UR職員が甘利事務所“口利き”におわす (3ページです)
UR職員にとって正直に事実を話すと安倍に睨まれて出世が出来ないどころかURから放り出されるかもしれないのです。怖いのでしょう!URの担当者は何で?と思っているでしょう。しかし甘利の他の口利き議員の名前は出せないでしょう。しかし地検特捜部には話すでしょう。そして特捜部の中のファイルに名前が残されます。政権が代わればそのファイルが表に出て来るかも知れません。
☆東京地検がフタ!「企画調査課長」とNHK記者の不倫
東京地検は大丈夫なのでしょうか?ピーロートークで秘密を話していたとしたら大問題です。
☆中国人民が「甘利大臣、たった百万円の賄賂で辞任なんて」と騒然…中国公務員は平均430億円
どちらが異常なのでしょうか?中国の高級官僚の収賄金がドルとしてアメリカに流れ込みアメリカは得をしたのではないでしょうか?一部日本の湾岸地域の高層マンションなどの投資に回っているのでしょう。
☆【両陛下の慰霊訪問】で直視すべき、フィリピンの許しと日本の道義的責任
私は今上天皇の言葉は正しいと思います。私達日本人は決して忘れてはいけない事なのだと思います。私も戦後の生まれですが、私達の父親の時代の日本の犯した過ちはゴメンナサイで済む話ではないのです。いま安倍は昔の事は早く忘れようとしています。そして戦前の祖父の岸たちが考えた大東亜共栄圏を再構築しようとしたのです。それは大間違いだと思います。天皇の言葉を読んで、安倍のレベルの低さが明らかになります。
昨年6月のフィリピン大統領を迎えての宮中晩餐会での天皇の言葉・・・
貴国と我が国の人々の間には、16世紀中頃から交易を通じて交流が行われ、マニラには日本町もつくられました。しかし、17世紀に徳川幕府はキリスト教を禁じ、鎖国令を出して日本人の外国への渡航、外国人の入国を禁じました。そのため、キリシタン大名であった高山右近と内藤忠俊は、徳川幕府により、日本人キリスト教徒と共にマニラに追放されました。本年は、高山右近がマニラで病没してから、ちょうど400年に当たります。我が国は19世紀半ば、鎖国政策を改め、諸外国と国交を開くことになりました。20世紀初頭には、多くの我が国の人々が貴国に渡り、両国民の交流は盛んになりました。
しかし、先の大戦においては、日米間の熾烈(しれつ)な戦闘が貴国の国内で行われ、この戦いにより、多くの貴国民の命が失われました。このことは私ども日本人が深い痛恨の心と共に、長く忘れてはならないことであり、とりわけ戦後70年を迎える本年、当時の犠牲者へ深く哀悼の意を表します。
戦後、1956年の国交回復から今日に至るまで、両国は、共に手を取り合い、友好関係の増進に努めてまいりました。今や、約1万8千人の日本人が貴国に住み、20万人を超えるフィリピン人が我が国に滞在しております。その中には我が国の福祉施設に勤める人々もあり、高齢化する社会の中で大変重要な役割を担ってくれています。私どもが福祉施設を訪れた時、介護に当たる人々の中にフィリピンから来たと紹介される人もありました。
我が国の青年海外協力隊は発足した1965年から間もなく貴国において活動を開始し、今までにその総数は1600名近くに達しています。近年、経済、文化、そして人の交流など幅広い分野で両国関係がますます緊密になっていることを、誠に喜ばしく思っています。
今から53年前、当時皇太子であった私は、ガルシア大統領を国賓としてお迎えしたことに対する答訪として、昭和天皇の名代という立場で、皇太子妃と共に、貴国を訪問いたしました。その時、マカパガル大統領御夫妻を始め、貴国国民から温かく迎えられたことは、忘れ難い思い出となっております。また、カヴィテにアギナルド将軍御夫妻をお訪ねし、スペインとの独立戦争に勝利し、1898年フィリピンの独立が宣言されたバルコニーに将軍御夫妻と共に立ったことは、誠に感慨深いことでありました。
1986年2月、閣下の母君は、大統領に御就任、その年の11月、我が国を国賓として御訪問になり、私は皇太子として、大統領をお迎えいたしました。その後、1989年2月の昭和天皇の大喪の礼、翌年11月の私の即位の礼にも、御列席いただいたことに深く感謝しております。
閣下は、2010年の御就任以来、我が国を度々御訪問になっていらっしゃいます。2011年9月には東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市を御訪問になり、復興のための義援金が贈られました。このほかにも貴国からは、緊急物資や医療チームの派遣など、様々な支援を頂いております。また、昨年6月には広島市を御訪問になり、平和記念公園の原爆慰霊碑に献花をなさいました。我が国に対する温かいお気持ちに対し、心より感謝の意を表します。
閣下が、御就任以来、国民の声に真摯(しんし)に耳を傾け、貴国の平和と発展のため、貧困対策を始めとする諸課題に献身的に取り組んでいらっしゃることに、深く敬意を表します。また、我が国との関係強化に意を用いていらっしゃることを心強く思います。この度の御訪問が、両国の相互理解と友好協力関係の一層の発展に資する、実り多いものとなることを切に願っております。
ここに杯を挙げて、大統領閣下の御健勝とフィリピン国民の幸せを祈ります。・・・
今年1月の両陛下のフィリピン訪問のときの皇族や安倍首相らによる見送り行事でのお言葉・・・
フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜(むこ)のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています・・・
そして今年1月のフィリピンの歓迎晩餐会でのお言葉・・・
貴国と我が国との国交正常化60周年に当たり、大統領閣下の御招待によりここフィリピンの地を再び踏みますことは、皇后と私にとり、深い喜びと感慨を覚えるものであります。今夕は私どものために晩餐会を催され、大統領閣下から丁重な歓迎の言葉をいただき、心より感謝いたします。
私どもが初めて貴国を訪問いたしましたのは、1958年12月、ガルシア大統領御夫妻が国賓として我が国を御訪問になったことに対する、昭和天皇の名代としての答訪であり、今から54年前のことであります。1962年11月、マニラ空港に着陸した飛行機の機側に立ち、温顔で迎えて下さったマカパガル大統領御夫妻を始め、多くの貴国民から温かく迎えられたことは、私どもの心に今も深く残っております。この時、カヴィテにアギナルド将軍御夫妻をお訪ねし、将軍が1898年、フィリピンの独立を宣言されたバルコニーに将軍御夫妻と共に立ったことも、私どもの忘れ得ぬ思い出であります。
貴国と我が国の人々の間には、16世紀中頃から交易を通じて交流が行われ、マニラには日本町もつくられました。しかし17世紀に入り、時の日本の政治を行っていた徳川幕府が鎖国令を出し、日本人の外国への渡航と、外国人の日本への入国を禁じたことから、両国の人々の交流はなくなりました。その後再び交流が行われるようになったのは、19世紀半ば、我が国が鎖国政策を改め、諸外国との間に国交を開くことになってからのことです。
当時貴国はスペインの支配下に置かれていましたが、その支配から脱するため、人々は身にかかる危険をも顧みず、独立を目指して活動していました。ホセ・リサールがその一人であり、武力でなく、文筆により独立への機運を盛り上げた人でありました。若き日に彼は日本に1カ月半滞在し、日本への理解を培い、来たる将来、両国が様々な交流や関係を持つであろうと書き残しています。リサールは、フィリピンの国民的英雄であるとともに、日比両国の友好関係の先駆けとなった人物でもありました。
昨年私どもは、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます。
貴国は今、閣下の英邁(えいまい)な御指導のもと、アジアの重要な核を成す一国として、堅実な発展を続けています。過ぐる年の初夏、閣下を国賓として我が国にお迎えできたことは、今も皇后と私の、うれしく楽しい思い出になっています。
この度の私どもの訪問が、両国国民の相互理解と友好の絆を一層強めることに資することを深く願い、ここに大統領閣下並びに御姉上の御健勝と、フィリピン国民の幸せを祈り、杯を挙げたいと思います。・・・
なおホセ・リサール氏はフィリピン独立運動の闘士でフィリピンの国民的英雄です。志し半ばにしてスペイン軍に捕えられ銃殺されました。ホセ・リサール氏の胸像は日比谷交差点から日比谷公園を日比谷通り沿いに歩いて1~2分ほどのところにあります。1888年2月に帝国ホテルに滞在したことがあったために1961年に日本人の有志によって日比谷公園に胸像が建てられました。ホセ・リサール氏は日本女性と恋に落ちたとも言われています。1896年12月30日に公開処刑されましたが、処刑前に国民へ残した言葉「あけぼのを染めるのに紅がいるのなら、私の血で染めよ、頃よい時にまき散らし、さしのぼる君の光で金色に照らせ!」
ホセ・リサール氏は手記に日本の思い出を書き残しています。
日本は私を魅了してしまった。美しい風景と、花と、樹木と、そして平和で勇敢で愛嬌ある国民よ!おせいさんよ、さようなら、さようなら。・・・
思えば私はこの生活をあとにして、不安と未知に向かって旅立とうとしているのだ。この日本で、私にたやすく愛と尊敬の生活ができる道が申し出されているのに。私の青春の思い出の最後の一章をあなたに捧げます。どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。・・・
もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。 さようなら・・ さようなら・・
おせいさんとは臼井勢似子さんです。明治維新で没落したとはいえ、江戸旗本の武家育ちで、つつましく、編み物と絵画を得意とし、英語とフランス語を学んでいました。仕事は横浜で働いていたとも言われ、よく分かりません。おせいさんの兄は彰義隊士として上野戦争で戦死をしました。ホセ・リサールとおせいさんは二人で日光や箱根を一緒に旅行をしています。特に感銘を受けたのがおせいさんと一緒に見た歌舞伎の忠臣蔵だったと言われています。ホセ・リサールは祖国フィリピンをスペインの植民地から独立をさせようとした独立の志士でした。おせいさんのその後はイギリス人学者と結婚し、80歳の天寿を全うして、雑司が谷墓地に夫と共に眠っていると言われています。
湾岸地区にも、マンションだけでは無くのんびり散策できる公園が出来ればなーと思います。
都会の大きな公園は手入れが行き届いて綺麗です。特に春の桜の季節と秋の紅葉の季節は交通の便も良いので私は好きです。湾岸地域もせっかくの埋め立て地なのですからもっと大きな公園を作ればいいのですが、やはり財界からの要求でマンション群となるのでしょう。マンション群の中にも公園を作る事を義務付けているのですが、もっと大きな公園が欲しいですね!
私は天皇制度には少し疑問を持っているのですが、今上天皇や皇后や皇太子は人間として立派だと思います。安倍に対して不忠の臣と言えないところが残念ですが、行動で婉曲に諭しているのですが、安倍は知っていながら知らない振りなのでしょう。本心ではアカンベーをしているのかも知れません。まさに不忠の臣です。