京都嵐山 大河内山荘の紅葉 |
大河内山荘は天龍寺の北門を出て嵯峨嵐山の竹林を抜けたところにある庭園です。丹下左膳で一世を風靡した時代劇などで知られる俳優大河内傅次郎が別荘の庭園として作った回遊式庭園です。紅葉の季節は素晴らしいのですが、だいぶ盛りを過ぎていました。大河内傅次郎は映画出演料の大半を庭園に注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと作り上げた庭園です。 場所は小倉百人一首でも知られる小倉山の南東面にあります。大河内傳次郎は当たり役の丹下左膳で「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」(姓は丹下、名は左膳)と訛りのある台詞で一世を風靡しました。幼い子供時代にシェイはタンゲ、ナはシャゼンと言って遊んだ事を思い出します。
新後撰集から後嵯峨院のうた
誰(た)が袖に 秋待つほどは つつみけむ
今朝はこぼるる 露の白玉
(意)秋を待っている間、誰の袖に包み隠されていたのだろうか。立秋の今朝になってこぼれる落ちる、露の白玉。
「露の白玉」とは涙の事です。この当時は天皇との呼び方は失われていました。順徳天皇(在位1210年-1221年)以来、光格天皇(在位1791年-1817年)で諡号(しごう)が復活するまで、「天皇」の号は生前も死後も正式には用いられませんでした。例えば後嵯峨天皇は後嵯峨院と呼ばれました。通常の呼び方は帝(みかど)と呼ばれていました。帝を譲って隠居をすると院と呼ばれた様です。つまり帝は現職、前職、元職すべてを院と呼んだようです。院をすべて天皇に置き換えたのは明治維新後のことです。天皇という呼称は大宝律令(701年)で「天皇」号が法制化され、儀制令に規定があり、その後の養老令(757年)天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」と定められていました。初めて天皇と呼ばれたのは第40代天武天皇(大海人皇子)であろうと言われています。それまでは特に古代では各地の王権の連合政権でヤマト王権が多くの地域の王達の代表という立場だったのでしょう。
古代では各地の王がそれぞれ中国や朝鮮と交易や国際交渉を独自で行っていたのです。しかしそれも北九州一円の王であり新羅と手を組んでいた磐井氏を百済と手を組んだヤマトの王が討伐する事で九州の統一に成功し、倭国(多分ヤマト王を中心とする連合政権)の国際外交や海外出兵の全権力を連合政権の中でヤマト王権が握ったのでしょう。倭国として百済救援に九州を足場にして朝鮮半島に軍隊を送ったのです。百済救援にはまず最初に北九州の王である磐井氏の協力がなければ出来ないのです。そのために第1弾として新羅と手を組んでいた磐井氏を滅ぼしたのでしょう。元々は朝鮮半島南部の任那諸国(加羅国、金官国など)である任那を出身とするヤマト王権が朝鮮半島の権益を守るために百済と連合して新羅と唐帝国の連合軍と対立をしたのです。そして「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に完敗をして朝鮮半島の権益をすべて失い百済の遺民や任那の人々を倭国が受け入れたのです。その後も朝鮮半島の動乱が続き、日本に避難してくる人達を倭国は受け入れ続けたのです。思うにヤマト王権と同じような力を持った蘇我氏を中大兄皇子と中臣鎌足が手を組んで滅ぼしたのも、根底には朝鮮半島の政治情勢から百済へ倭国が一致して援軍を派兵する必要があったのでしょう。多分、蘇我氏は当時の国際情勢(中国と朝鮮半島の政治力学)から百済と手を組むことに反対だったのでしょう。中臣鎌足の出自がよく分からないのです。多分、百済の王族の一人だったのでしょう。中臣鎌足の子供の藤原不比等が日本書紀を作る過程で中臣鎌足の出自を創作した可能性が高いと思います。
そこに出てくるのは最後まで藤原氏の台頭に逆らい続けた古代からヤマト王権に忠節を貫いた大伴氏が藤原氏によって陰謀にかけられて滅ぼされたのでしょう。これによって藤原氏が完全に天皇を中心とする政治体制を独占したのでしょう。万葉集巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」で詠われた「海行かば」に大伴家持は大伴氏の棟梁として大伴氏と同族の佐伯氏(さえきのうじ)達に自分達の出自を明確に述べ、自分達は藤原氏とは違うことを書き残したのでしょう。
海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへり見は せじ
強烈な藤原氏への反感がこの歌にこめられていいるのでしょう。
☆北の核・ミサイル問題めぐり 国連安保理で米朝が非難合戦
愚かなことです。お互いに対外国そして対国内へ向けての面子の問題になっているようです。もう歩み寄りは無理なのでしょう。北朝鮮はますます核武装へ拍車をかけていくでしょう。止めるのには戦争しか手段が無くなっているのでしょう。ちょうどイギリスのチェンバレン首相の判断の間違いからヒトラーの台頭を許し、ナチスドイツが急激に武力を充実させてヨーロッパで第2次世界大戦が始まった時と似ています。ミュンヘン会談でチェコスロバキアのドイツ人が多く住むズデーテン地方の帰属問題で、イギリスおよびフランス政府は、これ以上(ズデーテン地方)の領土要求を行わないとの約束をヒトラーと交わす代償としてヒトラーの要求を全面的に認めることにしたのです。結果は全く逆になってしまい、ヒトラーの野望はどんどん膨れあがり、チェコスロバキア全土がドイツの侵攻により消滅したのです。チェコスロバキアの意思は大国間の話し合いで完全に無視をされたのです。ミュンヘン会談でのイギリスのチェンバレン首相の宥和策が第2次世界大戦への発火点になったのです。北朝鮮の金正恩もヒトラーの考えと全く同じでしょう。トランプも金正恩もそしてヒトラーもスターリンも安倍もパラノイア(偏執病)なのです。約束は破るためにあるとの考えなのでしょう。安倍が嘘ばかりついて公約を次々と破っていくのと同じです。
☆したい放題、やりたい放題の安倍デビル!
詐欺でしょう!