伊王野と岩観音 |
写真とパピオン大好き2
です。しばらくはココログにブログは残しておきます。今朝までココログのカウンターは408,600件を超えていました。長い間ココログや皆さんに大変お世話になりました。今後ともよろしくお願い致します
4月20日の栃木県那須町の伊王野と岩観音です。カメラはソニーNEX7とタムロンE18-200mmです。画像はクリックで大きくご覧いただけます。
伊王野城跡:別名霞ヶ城とも呼ばれ那須衆と呼ばれた那須七騎の一つで伊王野氏の居城でした。那須氏は那須与一の出た氏族で古代豪族の那須国造家の末と言われています。伊王野氏は那須氏から分かれた分家でした。伊王野の本家だけが「いおうの」と呼び、分家は「いおの」と呼びました。もとは奥州街道のそばに館を構えていたようですが、後背地に山城を築きました。おおむね那須本家に忠誠をつくした家ですが時々那須本家と争ったこともありました。那須一族は内部の情勢が複雑な一族で合従連合を繰り返してお互いに攻め合いました。最終的に那須七騎の一つ大田原氏に適当に丸め込まれてしまいました。しかし那須衆は対外的な戦闘では団結をする一族で戦闘能力も非常に強かったようです。宇都宮氏や佐竹氏の干渉には断固として団結して戦いました。非常に戦闘能力が高い一族だったためでしょうか徳川家康に認められ関ヶ原の前夜には上杉軍の白河方面からの南下に備え大関高増の黒羽城を中心とする多くの城に那須衆が籠り黒羽城と大田原城に徳川軍の援軍を受けて上杉軍と対峙しました。伊王野城は芦野城の南にあり芦野城が上杉軍に襲われると次は伊王野城でした。上杉軍を迎え撃つ本城は黒羽城で芦野・伊王野城は時間を稼ぐのが目的で周りには多くの出城や砦を持っていました。
伊王野氏は豊臣秀吉の小田我攻めで遅参したため減俸の処分を受けましたが文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に功がありその後の徳川政権下では那須衆の一員として交代寄合の旗本として領地を持ち参勤交代ができる旗本となりました。しかし後継ぎがなくて無嗣断絶となってしまいました。
岩観音:別名「堂の下の岩観音」と呼ばれています。観音信仰のお堂で観音様が祀られています。観音堂の後ろの岩に観音像が彫り込まれているのだそうですが分かりにくいです。雨に濡れると浮き上がってくるのだそうです。この岩観音の由来などはよく分からないのだそうです。
玉葉集から和泉式部の歌。
いかにせむ いかにかすべき 世の中を
そむけば悲し すめばうらめし
(意)どうしよう。どうすればよいのだろう。この世を捨てるのも悲しいし、住み続けるのも耐え難いし。