さいたま市 見沼代用水東縁の彼岸花2 |
我が家の御先祖様は上尾と桶川の境で質屋を営んでいて桶川は江戸時代の紅花の大量産地で品質は山形産の紅花に次ぐと言われていました。農家では紅花を収穫後、団子状に固め紅花餅として運送に便利なように加工しました。我が家の先祖はこの紅花を買い付けて紅花を馬の背に載せて中仙道を京都まで運び、京都の紅屋へ納めていました。代金は紅屋振り出しの約束為替にして大阪の両替商で現金化し大阪港から大型船に乗り一気に銚子港まで航海して銚子で内陸で販売のための海産物などの魚介類の俵物(乾物)を購入して利根川から内陸水運を使って上尾まで帰って来ました。当然この見沼通船堀を毎年1回は使っていたことになります。御先祖様の仕事を証明する文書が江戸時代末期の大阪の東町奉行所の判決記録から吟味方与力の沙汰書が出てきてたのです。内容はご先祖様が京都の紅屋に対して代金の支払いを求めたものでした。事件は紅屋が紅花を受け取った代金として為替手形を発行したのですが大阪の為替商に対して紅屋が支払いを拒絶する文書を発行したために大阪で紅花の代金を受け取れなくなり大坂町奉行所へ訴えたもので、判決文は直ちに紅屋は代金を支払えとの判決文でした。それまで代々家業を言い伝えられてきたのですが証拠となるものがなかったのです。大阪の公文書館からコピーが送られてきて初めて御先祖の仕事の一端が明らかにされました。言い伝えでは一族の男衆はほとんどがこの輸送業務にかかわり留守宅は女衆と子供だけで切り盛りをしていたそうです。また子供たちは桶川や上尾の宿場町の入口の宿場役人の管轄外の場所で行われている賭博場で小銭を貸す事をやっていたようで、貸し金のかたに褌を取っていてそれを宿場の入口の木に干していたそうです。貸し金のかたに取った褌が風になびいて源氏の旗が翻っているようだと言われていたそうです。どうも私の遺伝子の中に商売っ気が少し残っているのかも知れません。
さて、利根川河口にある銚子港から内陸水運を使ってどのように埼玉県の中部まで俵物を積んで移動できたのでしょうか?江戸時代徳川幕府の行った最大の土木工事は関東平野を流れて江戸を通って東京湾に流れ込んでいた利根川や荒川の大河川の流れを変え川筋を一定にさせる事でした。特に江戸湾に流れ込んでいた利根川の流れを東遷させて銚子に流したのです。徳川家康は江戸開府五の最大の事業として河川の付け替えを行ったのです。このために武田の遺臣だった伊奈氏を関東総奉行(後の関東郡代)として重用し甲斐流(信玄流)の土木工事で河川の付け替えを行わせました。この事により江戸を中心とする関東平野は大きく変わることが出来たのです。それまで暴れ川だった利根川と荒川の2大河川の流れは一定していなくて、時により二つの流れが一緒になり江戸を水浸しにした事も度々ありました。利根川を東遷させ荒川の流れを入間川(新河岸川)と一緒にして水の流れを統一し、関東平野に運河を開削し水不足だった関東平野を新田開発により緑の大地に変えたのです。それは江戸市中の水害対策としても行われました。それにつれて古代から続けられてきた川運を大々的に物流の中心として、大量輸送路を陸上ではなく内陸水運にしたのです。その中で重要な内陸水運の一つが見沼代用水であり、あと一つが「内川廻し」と呼ばれる運河でした。内川廻しとは銚子から利根川・江戸川を経由して江戸東京にいたる内陸水運でした。この2つの重要な内陸水運は江戸時代から戦前まで、この航路は地域間交流の幹線として、江戸・東京の発展に大きく貢献したのです。内川廻しとは銚子から川舟によって利根川を上り、関宿から江戸川を経て舟堀川(現在の新川)と小名木川を通り万年橋で隅田川に至る航路を「内川廻し」と呼びました。銚子から鮮魚は三丁艪でとばして利根川を上り、千葉県印西市木下(きおろし)から陸路、木下街道を鎌ヶ谷経由で馬の背につけて行徳まで運び、再び舟に積んで小名木川から隅田川に出て日本橋魚市場へ至るという順路で運びました。このために日本橋小網町は魚を開いて日干しにする網が沢山あったので小網町と名前がついたと言われています。現在は高速道路などで蓋をされていますが、当時から日本橋が関東の内陸物流の中心でした。
日本橋の小網町河岸の光景を「荒川上流、上州、武州行きの川船も皆小網町河岸白壁の土蔵数町の間軒を並べ、川にはこの多くの船々の荷積み荷卸しの光景を江戸橋、荒布橋上より眺めて、始めて江戸見物に来りし田舎人の目を驚かすは無理ならず。当時江戸名所の一ツなりし」と鹿島萬兵衛(幕末から大正にかけての実業家)が「江戸の夕栄」(大正11年刊)で述べています。
P.S.
☆中国の著名女性活動家が出所 人権取り組み継続
本人は絶対にアメリカへ出国はしないでしょうが、このまま中国にとどまると生命が危険に晒されます。中国共産党の一党独裁には民主活動家は不要な国民なのでしょう。
☆安倍首相は真っ青…米ケリー国務長官ら「千鳥ケ淵」で黙祷の衝撃
アメリカにとっては日本の靖国神社は韓国と中国と日本の関係に邪魔でしかありません。私もそう思います。国が千鳥ヶ淵を戦没者墓苑として政令で定めれば解決するのです。以前からブログに書いていますが、靖国神社にこだわる必要はありません。日本の政治家と官僚には知恵がないのです。アメリカの首脳が教えてくれたのでしょう。
☆日本から来た「刺身先生」樋口幸治さん
お互いに教え学ぶ事が日本と韓国にとって大きな利益なのです。
☆減らない鉄道自殺 遺族への損害賠償は「抑止力」になっているのか?
制度的には鉄道会社は遺族へ損害賠償の求償権はあるのですが、現在はほとんど求償していないと思います。以前私の知人の親戚がJRの担当者となり遺族との板挟みになりノイローゼとなって休職をしているとの話を聞いています。私は鉄道会社は遺族へ求償すべきだと思います。
☆海運市況が急上昇 中国需要は本物か 光が差した鉄鉱石船市況だが、持続性に疑問符も (2ページです)
私は会社員時代に2~3年おきに出向で仕事先が変わりました。船会社にも2年半ほど出向していました。船の運賃は非常に景気や政治情勢に敏感でした。面白い仕事でした!
☆札幌・丘珠空港:「都心空港」高い潜在力 ジェット就航探る
滑走路が1800mあれば面白いでしょうね。日本は代替空港はほとんどありませんが、高速道路などのうち地方の交通量の少ない高速道路を3000mほど直線にして大型航空機の荷重に耐えられる道路を作る必要が本当はあるのです。これは一般に使うものではなく、万一の場合の航空・陸上・海上自衛隊が使う空港としてです。また災害の多い日本では万一の場合の救難基地として使えます。これに垂直離着陸戦闘機をがあれば他国の攻撃に耐える事が出来るの陸上移動式の工兵部隊と補給部隊があれば完璧です。あくまでも防衛のためです。他に瞬間的に固まるコンクリートを使っての臨時空港も面白いと思います。むかし、完全武装で短距離で離発着できる垂直離着陸戦闘機あるいは大型ヘリの離着陸場として研究した事がありました。むかしはハリアー戦闘機でした。敵国のスパイに対して防諜の点からも大型の航空基地は初戦の数分で壊滅させられる可能性があります。小さな航空基地は敵に把握されがたいのです。十分に実用実現可能です。ドイツでは5000mの高速道路をつかった臨時空港が一つあります。3000m級は何ヶ所かあります。雪害では救助用ヘリコプターの離着陸に利用されるています。
シゲさんも、その血を継がれているんですね。
ドイツの高速に飛行機が着陸するのは、有名ですよね。
先祖の歴史を調べるのは面白いです。しかし、記録がほとんど残っていません。叔父の遺品を整理していたら、祖父の代議士へ貸した借用証が沢山出てきました。借用証があると言う事は踏み倒されたと言う事です。