浜離宮庭園の春の訪れ1 |
菜の花や 月は東に 日は西に 蕪村
浜離宮は正式名称は浜離宮恩賜庭園で現在は都に下賜されて都立庭園となっています。元は甲府藩初代藩主徳川綱重がこの地を拝領して埋め立てて下屋敷としましたので甲府浜屋敷とか海手屋敷などと呼ばれていました。甲府藩2代目藩主綱豊は将軍家に養子として入り第6代将軍徳川家宣となりました。それにつれて甲府藩は幕府の編入され甲府浜屋敷も将軍家の別邸となりました。幕末にはこの地に幕府海軍伝習屯所が置かれ幕府海軍の基地となりました。第15代将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いで官軍に負けて大阪城から幕府海軍の軍艦で逃げ帰って来た時にこの地に上陸し、江戸城の動向を調べるために一晩をここで過ごしました。また幕府はこの地に石造りの海軍の洋館を建設中に幕府が倒れ明治2年に完成し延遼館と名付けられ明治政府の迎賓館となり、鹿鳴館が完成するまで外交儀礼に使われました。
黒船の来襲による開国の衝撃は、軍備の速やかな近代化と軍制大改革の必要を身に滲みた幕府首脳は、刀や槍の時代ではない事は全員が自覚をしていました。開国の必要性も分かっていました。倒幕の中心だった薩摩藩も薩英戦争で欧米列強の軍備の強大さは自覚をしていて開国をしないとどうしようも無いと言う事は分かっていたのです。また清国がアヘン戦争で香港をイギリスに奪われたことも幕府も薩摩も長州も十分に分かっていたのです。そのために幕府は対外交渉ではできるだけ時間を稼ぎ、フランスの援助で軍政の大改革に取り組んだのです。頼りにならない旗本8万騎ではなく広く庶民から兵士を募り士官は旗本や譜代大名の家臣を借り受けたのです。文久2年(1862年)の改革で、陸軍は歩兵・騎兵・砲兵の「三兵(さんぺい)」に編成されて将軍直属の常備軍となり、慶応2年(1866年)には横浜に調練場(三兵伝習所)を開設。翌年フランスから招かれた教官たちの指導の下、大規模な陸軍演習が行われました。その後、三兵伝習所は横浜から江戸に移され、江戸の各所に歩兵・騎兵・砲兵の屯所が設けられました。その時に優秀な士官として勤務をしたのが後に戊辰戦争で幕府陸軍伝習隊を率いて各地を転戦した大鳥圭介や、桑名藩兵や旧幕府軍を指揮した不敗の将軍立見尚文(たつみ なおふみ)でした。特に立見はフランス士官達に大きな衝撃を与えたようで、「立見は天成の軍人である。ナポレオンの頃フランスに生まれていたら恐らく30になる前に将軍になっていただろう」と言わさせた人物でした。
立見は日露戦争の最後の一番大事な黒溝台の戦いで、ロシア軍が全兵力を投入して孤立した最西端の秋山好古少将貴下の秋山支隊に総攻撃をしてきたのです。秋山支隊は騎兵を中心とする部隊でしたが塹壕と機関銃で数十万のロシア軍の総攻撃を数千名の兵力でしのいでいました。この塹壕戦がヨーロッパの観戦士官達が秋山支隊の戦いを見学をして第1次世界大戦の時の西部戦線戦の塹壕戦の見本となったのです。最西端の秋山支隊が崩壊をすると日本軍はロシア軍に包囲殲滅をされる可能性が高かったのです。しかし援軍を出そうにも兵力不足の日本軍は援軍として1個師団しか割けませんでした。立見将軍は秋山支隊の援軍として第8師団を率いて兵科だけでは無く、全兵力(衛生兵や炊飯部隊や輸送部隊を含めた)を使ってロシア軍に夜襲を慣行し、師団の半分を失いながら秋山支隊を救い出しました。これによりロシア軍は1個師団の捨て身の夜襲とは思わず数個師団での夜襲と勘違いをして第8師団の後ろに強力な日本軍がいると考えたロシア軍は退却をしたのです。当時の夜襲の常識は部隊の1/10で行うことでした。また師団規模の夜襲は当時としては常識外でした。普通ならば師団規模で行動を起こすには事前に部隊の移動などで気配が相手に分かってしまうのです。そのために1/10の部隊での夜襲と言う事になるのです。ロシア軍は1個師団それも全兵力の夜襲では後ろに日本軍の十数個師団がいるはずだと誤解をして撤退をしたのです。この勝利により日本は有利な条件で停戦交渉が出来るようになったのです。立見将軍は戊辰戦争以来、死ぬまで戦いで負けたことが一度も無かったのです。賊軍の桑名藩出身で陸軍大将になっています。
海軍を持たなかった幕府にとって、海軍力の整備はさらに陸軍の編成よりも緊急の課題でした。ペリーの来航から3ヶ月後の嘉永6年(1853)9月に大船建造の禁を解き、石川島の造船所で水戸藩に西洋式大型帆船「旭日丸(あさひまる)」を造らせ、安政元年(1854)には浦賀の造船所で「鳳凰丸(ほうおうまる)」を起工。その後オランダ・イギリス・アメリカ等から船舶を購入して海軍力の充実を図りました。その一方で、長崎の出島のオランダ商館長のアドバイスによってオランダ政府の発案で長崎に設けられた海軍伝習所(1855-59年)に22名のオランダ海軍士官の派遣を受け、幕臣や諸藩の家臣を伝習生として航海技術や科学知識を習得させ、安政4年(1857)には江戸に軍艦教授所(後に軍艦操練所、海軍所と改称)を開設し、海軍教育の充実を期しました。
海軍の近代化、ひいては日本の近代化には工業技術の向上が不可欠であるという見地から、歩兵奉行・軍艦奉行・勘定奉行等を歴任し、文久の軍制改革にも参画した小栗上野介忠順(ただまさ)は、製鉄所(造船所)の建設を幕府内の反対を押し切ってフランスからの借款によって積極的に推し進めました。フランスから技師ヴェルニーを招き、慶応元年(1865年)に横須賀の地で起工。その完成を見ずに幕府は倒れ、小栗は斬首されますが、造船所の建設は新政府に受け継がれ、横須賀造船所、横須賀海軍工廠へと発展しました。小栗上野介が作った横須賀製鉄所と造船所が無ければ日本は日露戦争には勝てなかったと言われています。小栗上野介忠順は「明治の父」とも言われています。この時にオランダから輸入したスチームハンマーは平成の時代になっても働き続けました。現在は横須賀のヴェルニー公園内にオランダから輸入した、スチームハンマー2基が役目を終えて展示をされています。また小栗上野介が作らせたドライドックは現在でもアメリカ軍横須賀基地内で現役で活躍をしています。幕府がフランスからの借款の返済は明治新政府が引き継ぎました。
☆支持率急落で5月総辞職説…二階幹事長が“安倍首相切り”へ (2ページです)
安倍はこんな事では退陣をしないでしょう。追いつめられても平気で嘘をつける異常な性格なのです。二階幹事長が倒閣に動けば一気に安倍政権は崩れるでしょう。そのためには二階を動かす何かが必要です。それは倒閣をする事による利益です!麻生もその時は自己の利益のために動くでしょう。二人ともいまや安倍に恩を売り、次の政権のキーマン(黒幕)になろうとしているのでしょう。
☆首相は否定、局長は含み=昭恵氏影響めぐりずれ―森友文書改ざん―
佐川にすべての責任を押し付けるのでしょう。決裁文書の改竄は当然内閣官房とのすり合わせで行った事です。問題は佐川が全責任を被って刑事訴追を受けて有罪になれば退職金は返還請求されるでしょうし、遡って懲戒解雇となると公務員の年金も出なくなります。国税庁長官の退職金も出ないでしょう。つまり佐川に責任を押し付けるには、それだけ安倍としては今後一生の佐川の生活の面倒を見る約束をする事になります。佐川が証人喚問で話せば安倍政権どころか自民党がぶっ飛びます。佐川が刑事被告人になってからの処遇の話し合に時間がかかっていたのでしょう。つまり証人喚問で何も話さないで責任を被る見返りです。しかし議会での証言を刑事訴追を受ける可能性として拒否すれば、そこに話せない話してはいけない真実があると言う事なのです。
☆自民党は壊れたのか…ベテラン秘書嘆く
このままでいくと自民党もいずれ無くなるでしょう。残る道は戦争へまっしぐらに走ってしまった戦前の大政翼賛会です。異論は許さない政治です。国家の利益や愛国という一見美しい言葉の裏に隠されたものがあるのです。日本人ならば誰もが日本を愛しているはずです。そこに政治家個人の利益(お金と権力)が入ってくるから複雑になるのです。民主党だった前原や細野達、民主党を破壊をした政治家たちは泣いて喜ぶでしょう。彼等は民主党を破壊すると言う念願と言うより、自民党に入りたかったのですが現状では入れなかったのです。このままでは彼らは裏切り者として政治の世界から消え去る事になります。何とかしていま一度脚光を浴びたいでしょう。そのためには権力に擦り寄り安倍を中心とする日本会議を中心にした大政翼賛会を作りたいでしょう。戦前の大政翼賛会は陸軍大臣だった東条英機が満州での安倍の祖父の岸信介が満州国の日本人官僚のトップの時に満州でのアヘンで作った裏資金を東條に渡して永田町の政治工作資金にしたのです。その功績で岸は日本に帰り東條内閣の大臣となったのです。歴史は繰り返す事になるのかも知れません。
☆圧力男の池田佳隆は「安倍の愛弟子」だった!
そもそも日本会議のメンバーの国会議員は単細胞なのです。彼等の話はいい加減で頭の悪さがすぐに分かります。単純なのです。この世の中がそんなに単純ならば私達日本人は幸せです。はっきり言えば馬鹿集団なのです。問題ばかり起こすとんでもない国会議員ばかりです。
☆和田政宗がまた自爆! 野党攻撃に使った「国有地払い下げの山梨の学校法人」は自民党の文科省圧力議員が元校長で安倍の盟友が理事 (3ページです)
この議員は馬鹿の見本とも言える男です!自爆したようなものです。文科省に前川前事務次官の名古屋での講演会への圧力をかけさせた自民党の赤池誠章議員が和田議員が騒ぎ立てた日本航空学園の学校長だった事があるのです。コチコチの極右の学校なのです。森友学園や加計学園と同じように国有地に関して問題がある学校なのです。日本航空学園に関して財務省や文科省を叩けば埃が舞い立つでしょう。忖度をさせているのです。本当にレベルの低い議員達ばかりです。そんな人物を選ぶ自民党と選挙民が劣化をしているのです。
☆前川氏授業に介入 背景に安倍チルドレン議員の“妬み説”も (3ページです)
この自民党の2議員の教育行政への公然たる介入は重大問題なのです。森友学園や加計学園の事件と同じように日本の民主主義の根幹に関わる大事件なのです。日本の民主主義を守るために絶対に許してはいけないのです。
☆安倍政権は支持率「危険水域」突入 大阪地検、財務省を強制捜査の衝撃情報 永田町関係者「佐川氏の国会招致後、一斉着手か」 (2ページです)
大阪地検特捜部が事件を着手する可能性は低いでしょう。どこかで小さな事件として誰かを立件する可能性はあります。理由は東京も大阪も地検特捜部はそれぞれの高検が指揮命令をする事になっているのです。森友学園やスパコンそしてJR東海の談合事件が起きてから事件解明に積極的だった高検幹部は栄転という左遷で飛ばされて、変わって安倍政権に忠誠を誓っている法務省の官僚が座っているのです。一説では朝日新聞に森友学園の決裁書改竄を漏らしたのは捜査を止められた大阪地検特捜部の一部検事だと言われているのです。また財務省の若手官僚から画像として朝日新聞に漏らされたとも言われています。私は朝日新聞は財務省の若手からの情報から大阪地検特捜部の一部検事に朝日新聞は確認を取っての記事だったのでしょう。通常であればこんなにも危険な記事は書けないはずです。もしガセネタであれば朝日新聞は安倍政権の圧力で倒産の危機になっていたでしょう。2018年3月2日の朝日新聞の1面トップに財務省の決裁文書の改竄が載せられたのです。世紀の大スクープとも言える記事でした。先日もラジオの番組である政治評論家が検察内部に安倍政権が検察の人事に口を出していると検察内部での不満が溜まっていると言っていました。当然検察内部には正義の味方であろうとする考えの検事も多いはずです。
☆安倍首相、4月辞任の公算か…自民党が恐れる「影のキーマン・今井秘書官」証人喚問 (2ページです)
森友学園や加計学園の事件のキーマンは総理主席秘書官の今井秘書(経産省出身)だと以前から言われていました。経産省が中心となって引き起こした疑獄事件なのです。財務省は安倍政権までは常に政治を引っ張ってきたのですが、今や昔の面影は無く、経産省に安倍政治は完全に牛耳られているのです。安倍夫婦の利益のため、安倍夫婦を守ろうとした事で財務省の解体論まで出ているのです。
☆年金機構、違反把握後も契約見直さず=中国業者再委託―誤入力31万8000人か
コメントも出来ないような酷い話です。競争入札で安い金額を提示した企業に落札させ、後の事は落札企業が契約通りに業務を行ってくれるはずだと言う考えなのでしょう。以前ブログに何度か書いた事がありますが、行政サービスのコストとは損益で考えてはいけないのです。確かに無駄は省くべきなのですが、国民や地域住民の利益のために行政サービスが必要だから税金で賄うのであり、当然赤字になるものなのです。そこを無理をして黒字にしようとするから問題が起きるのです。