4月16日の上野東照宮の牡丹苑です。カメラはソニーα7Ⅱと24-240mmです。
牡丹 李商隠
錦幃初巻衛夫人 錦幃(きんい) 初めて巻く 衛夫人(えいふじん)
繍被猶堆越鄂君 繍被(しゅうひ) 猶(な)お堆(うずたか)し 越の鄂君(がくくん)
垂手乱翻雕玉珮 手を垂れて乱れ翻る 雕玉(ちょうぎょく)の珮(はい)
折腰争舞鬱金裙 腰を折りて争い舞う 鬱金(うつこん)の裙(くん)
石家蝋燭何曾翦 石家(せっか)の蝋燭 何ぞ曾(かつ)て翦(き)りし
荀令香炉可待熏 荀令(じゅんれい)の香炉 熏(かお)るを待つ可(べ)けんや
我是夢中伝彩筆 我れは是(こ)れ 夢中(むちゅう)に彩筆(さいひつ)を伝う
欲書花葉寄朝雲 花葉(かよう)に書して朝雲(ちょううん)に寄せんと欲す
(意)
錦の帳が巻き上げられ 姿をあらわす衛の霊公夫人南子
刺繍の夜具で包みこみ 越の男をこんもりと抱く楚の鄂君
舞の手に調子を合わせ 乱れて揺れる雕玉の珮
腰で裳裾をくねらせて あたりに漂う鬱金の馨
石崇の蝋燭は 芯を切らずにまばゆく輝き
荀彧の香炉は 香を焚かなくても芳ばしい
私は夢の中で 筆の力を授かった江淹のような者
この花と葉に詩を書きつけて 巫山の朝雲に捧げたい
この漢詩は李商隠の最初の支援者だった令狐楚(765-837年)の屋敷で催された宴会の席上、そこに侍った芸妓たちを独特の視線から詠って作られたものであると言われています。令狐楚の屋敷の牡丹は当時は有名だったようで、牡丹を芸妓と見立て芸妓との乱交を詠ったと言われています。この漢詩は四つの物語であると言われ、第一場面は二つの故事を使って状況を想像させるもので、衛夫人の故事で高貴な人の閨の状況を、続いて楚の貴公子と船頭との同性愛の故事を借用して夫人と芸妓の同性愛を述べている。第二場面は艶めかしい踊りと愛し合う様子を詠っています。第三場面はたくさんの蝋燭は芸妓であり、ハーレム状態、たくさんの男女の絡み合いを詠う。第四場面、ここに参加していた私はどの妓と楽しむか得意の詩でお誘いしよう、というものです。かなり猥雑な漢詩です。
P.S.
まさにある意味で北朝鮮の主張をしている日本の自衛隊攻撃能力は世界一流との主張は当たっていると思います。ただしアメリカの不足する軍事力を補うというアメリカの考え方によって作られている自衛隊の装備なのです。中途半端に傾いているのです。日本が真の独立国家として、そうして平和憲法を守り専守防衛に徹する事が出来れば自衛隊の装備はもっと機動力に富み、いかなる攻撃を凌げて安価な軍備を持つ事が出来るでしょう。軍事力とは最高の物を望めば際限が無くなるものです。そこで軍需産業と軍隊と研究機関が一体となりやすいのです。そこにブレーキをかけるのが議会と国民のはずなのですが議員の質の低下や国民の民度の低さにより産軍学の暴走が始まるのです。アメリカのアイゼンハウアー大統領が離任演説でアメリカの未来の危機について「戦争国家」と述べました。彼の予言通りにアメリカはベトナムとイラクとアフガンでの泥沼の戦争に突っ込んでいったのです。結果は世界の平和に逆行をしただけでした。誰が一番儲けたか考えれば普通の思考能力を持っている人ならば馬鹿らしいと誰もが気が付くはずです。国家の安全保障は軍事力だけではないのです。もっと広い視野に立って日本の国益になる事を考えるべきです。以前から私が言っているように海上自衛隊の護衛艦のヘリ空母や大型輸送艦を病院船として護衛艦部隊を災害救隊として日の丸を掲げて世界中に置いておく方が日本の安全保障には役立ちます。日本が戦後から復興できたのは戦前戦中を生き抜いてきた人達の反戦思想なのです。平和憲法を前面に出して出来るだけ軍備にお金をかけずにお金を民需に振り分けてきたのです。歴代日本の総理大臣は平和憲法を前面に出しアメリカの理不尽な要求を拒否をしてきたのです。そのお陰で日本は朝鮮戦争やヴェトナム戦争などのアメリカの戦争には巻き込まれずに済んだのです。いままでは安倍のような単純馬鹿は総理大臣には成れかったのです。
嘘しかつかないような安倍を日本の権力の座に座らせておくことは子供教育上はよろしくありません。その安倍が道徳教育は必要だと言っているのです。一番初めに道徳教育を受けなければいけないのは安倍でしょう!
やはり嘘ばかりついてきていると、ついつい依然言って来た嘘を忘れてしまいヤバイ事に自分を追い込んでしまうのです。それでも平気で嘘をまたついてくるのは安倍達世代の共通項なのでしょうか?そんなはずはありませんが!それを許してしまう風潮が日本人の根底にあるのかも知れません。最近友人達とお酒を飲んでいて必ず話題になるのは最近の信じられないような犯罪の連続です。みんなの結論は安倍が嘘をつき続けて権力の座に座っている限りは日本は良くなるはずもないと言う事になります。見つからなければ良い、見つかっても誰かに揉み消して貰えば良い、ヤバくなればシカトすれば済んでしまうとの風潮を安倍達が作っているのです。一度最下層に落ちればどんなに這い上がろうと苦労をしても無理だという社会を作ってしまったのです。私達にも責任があるのでしょう。安倍達は日本がまだ昔のようにそれ行けドンドンのように右肩上がりが出来ると思っているのでしょう。そんな時代ではありません。いまは静かにスローダウンさせる時代なのです。
安倍の支持率が上がっているのはそれだけ日本人の民度が低いと言う事なのでしょう。自虐かも知れませんがそれが事実だと思います。まさに麻生の言うとおりに「自民党支持者は新聞を読まず、ネットやテレビのワイドショーの印象だけで物事を判断する」のです。「本当に悲しむべきことを悲しむことも出来ない。それが本当の悲しみ」とは宗教家の佐野明弘氏の言葉です。
☆細野豪志氏への5千万円、原資は親会社からの増資資金こんな男たちに民進党が壊されてしまったのです。やっている事は自民党と同じではないですか!
むかしから国会では特別調査委員会の設置の考え方はあるのですが、自民党に不利と言う事で自民党の反対で見送られる事が多いのです。特別調査委員会と言えば設置の目的は疑惑解明となります。与党側にとっては飯の種である利権構造を明るみに出される事は困るのでしょう。本当は特別調査委員会を設置する事で通常の国会の審議が進むのですが、特別調査委員会を作ると普通の委員会での審議や審理に対して野党の鋭い突込みが入り、疑惑解明が一気に進んでしまい与党議員達や官僚達にとっても不利益となるのです。むかしの国会は強行採決は極力避けるのが与野党のルールだったのですが、特に安倍政権になってスキャンダルが連発するので、わざと委員会で野党側の質問にまともに答えないで紛糾させて審議を空転させ最後は審議に何時間かけたからと強行採決をしてしまう悪習がはびこっているのです。無駄に国会を空転させた野党の責任を御用マスコミは言いますが、特別調査委員会を作れば済む話なのです。それを作らせない与党側に問題があるのです。まさに上杉鷹山の『郷村勤方心得』に「民は知らしむべからず、由(よ)らしむべし」との言葉があります。この意味を取り違えて「民は従わせるだけでよい、知らせる必要はない」と解釈をされていますが、本当は「為政者たるもの、民に信頼され親しまれるように努めなければいけない、しかしその気持ちをわからせるのは難しい」と解釈するのが正しいのです。原典は論語の「子曰、民可使由之、不可使知之」です。小泉進次郎氏の意見はもっともな事です!どこも間違えていません。一番不利なのは官邸と与党の政治家達なのです。絶対に小泉進次郎氏達の考えは受け入れないでしょう。政治は商売で支持の世界で特権階級に常に居たいのです。
今昔物語に「信濃守藤原陣忠、御坂に落ち入りたる語」という話があります。「受領は倒れるところに土をつかむ」というお話です。藤原陣忠の馬が足を滑らして一緒に崖下に落下をした時に途中の枝に引っ掛かりかり従者達は必死に崖の上から声をかけたところ、籠に紐を付けて下ろせとの声が下から掛かり従者達が籠を投げ落とすとやがて籠に一杯の平茸を取った藤原陣忠が上がってきたのです。従者の目代が「手に入るものを、手に入れないのはよくありません。誰でもそのようなときには、手に入れるべきです。もとより賢い人は、死にそうになったときにも、あわてることなく、よろず普段どおりにことを運ぶものです。そうであるからこそ、国の政もうまくおさまり、物事も整うのです。そんな殿なればこそ、国人も父母のように敬愛したのです」とゴマを擦ったとの話です。どんな境遇にあっても利を忘れない役人を、部下の目からも皮肉たっぷりに描いている。これだけちゃっかりした男だからこそ、在任中もさぞかし何でも取り込んで懐を肥やしたのでしょう。役人に役得はつきものなので、むしり取るのが普通の政治家や役人ということで「転んでもただでは起きない」と言う事なのでしょう。確かに江戸時代の狂歌に松平定信(白河公)の政治姿勢を皮肉った有名な句があります。「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」です。確かに適当に濁っていた田沼時代の方が住みやすかったのでしょうが、いまの自民党政治のように濁りきっていてはマトモナ人には住みづらい世の中です。
確かに最後は見苦しい戦いになってしまったかも知れませんが、日本の西野監督にとっては正しい選択だったでしょう。ポーランドはわざとでしょうか最後は攻撃を仕掛けてきませんでした。お互いに疲れていた事もあるでしょうが、ポーランドにとっては1勝で終わるしかなかったのかも知れません。セネガル戦のように日本は驚異的な粘りで2度も同点に追いついているのです。危険を冒したくなかったのはお互いでしょう。しかし良かった!