中野市 一本木公園の花2 |
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2019年 10月 23日
9月8日の長野県中野市(信州中野)の一本木公園です。カメラはソニーα7RⅢと24-105mm&100-400mmです。 武田信玄が信州に進出してくると上杉謙信の与力大名だった中野の高梨氏をはじめ東信から北信に勢力を持っていた村上義清等は武田信玄と徹底的に戦い続け2度も武田信玄を打ち破りました。しかし武田信玄の圧力と戦に敗れたために村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち、高梨氏は持ち城の信州最北端の飯山城に北信州の豪族達と立て籠もり武田信玄と戦い続けました。信州の豪族は家の存続のために一族を二つに分けて上杉方と武田方に別れた豪族が多かったのです。もともとは清和源氏の井上氏が長野県高井郡周辺に勢力を伸ばし多くの支族に別れました。井上一族は村上氏、高梨氏や須田氏など多くが上杉謙信に従いました。徳川幕府第4代将軍の家綱の補佐役だった保科正之(将軍徳川秀忠の隠し子)の保科氏は井上一族で武田信玄に従いました。中野市の隣の須坂市の須田城の城主須田長義は井上一族でしたが上杉氏に従い上杉家の会津移封後は2万石の梁川城(やながわじょう)城代となり東北の関ヶ原の戦いと言われた松川の戦い(福島城外の松川の戦)では上杉景勝の老臣本庄繁長とともに徳川方の伊達政宗の大軍を逆転して撃退しました。 本庄繁長は上杉謙信の時代から上杉家を度々裏切ってきた独立の意向が強い問題の多い猛将でしたが、猛将ゆえでしょうか上杉謙信は何度も殺さないで助けてきました。多方面に敵を持っていた上杉景勝は慶長出羽合戦と言われた出羽の最上義光を攻ました。景勝は会津に残りましたが、筆頭家老の直江兼続に上杉軍の主力を与えて最上領へ攻め込ませました。最上氏を救援のために伊達政宗は軍勢の一部を割いて最上救援に向かわせ、政宗は上杉家の老臣の甘糟景継が守る最前線の白石城を甘糟景継が城を留守にしていた隙に攻め取り、福島方面から会津に攻め込む気配を示していました。上杉軍は最上・上杉連合軍を相手に戦いましたが関ヶ原で石田三成が敗れたことで撤退を始めました。主力を直江兼続に与えたために上杉景勝には手持ちの駒が無く、上杉家中では圧倒的に戦上手と言われていましたが、伊達政宗と手を組んで独立する可能性があった老臣の本庄繁長を信じて福島城方面の司令官として任せるしかなかったのでしょう。そのために景勝は最上領には攻め込まないで会津に残ったのでしょう。福島城を巡る戦いは上杉方は一方的に劣勢で北信州勢の須田長義の守る梁川城も伊達軍に囲まれましたが何とか撃退に成功しました。ゲリラ戦を得意とする北信州勢の特徴を持った須田長義は梁川城を出て遊軍として福島城の攻防戦に加わり、籠城した本庄繁長の福島城を囲んだ伊達軍の背後からの奇襲攻撃により小荷駄部隊(輸送部隊)を壊滅させ伊達軍を混乱させることに成功をし、劣勢だった戦況を一気に盛り返しました。最後は伊達軍の混乱を見て戦機と見た本庄繁長が福島城の全軍を率いて一丸となった決死の突撃により、また後ろからの須田勢に襲われた伊達軍は挟み撃ちとなり壊滅状態となってしまいました。伊達政宗も自ら槍を取って攻め寄せてくる上杉軍と戦うほどの混戦となり、近習の僅か10騎に守られて白石城に退却をしました。 松川の戦い後、会津で徳川家康に対して抗戦を継続すべきか講和すべきか軍議が行われ、この席で筆頭家老の直江兼続は抗戦継続を唱えましたが戦い続ける事は不可能と分かっていたのです。本庄繁長は強硬に講和を勧めました。上杉景勝は本庄繁長の意見を容れて終戦工作を開始し、繁長に上洛して折衝にあたるよう命じ、上洛した繁長は上杉家の伏見留守居役の千坂景親と協力して終戦工作に奔走しました。徳川家の家臣たちは上杉家の猛将の本庄繁長に対して非常に好意的だったと言われています。その結果、繁長らの努力が実って上杉家は存続を許されたのですが、会津120万石から米沢30万石へと減封されました。これに伴い本庄繁長も1万石から3300石に減俸されましたが、引き続き福島城代を務め、重臣として家中の再建にあたりました。なお須田長義は梁川城代として2万石から6600石へ減封されました。このために多くの武士達が失職をしました。 上杉家の筆頭家老の直江兼続は徳川家康の懐刀の本多正信の次男の本多政重を娘の婿養子として迎え、直江政重としました。本田政重は関ヶ原の戦いでは西軍の宇喜多氏の2万石の武将として東軍の福島正則と戦いました。関ヶ原後の浪人中に直江家の婿養子となったのです。直江兼続は上杉家のために徳川家康の懐刀の本多正信との関係を強める目的があったのでしょう。その後、上杉家が大幅な減俸となると政重は召し放された直江家や上杉家の浪人衆を率いて加賀100万石の前田利長に3万石で仕えました。後に幕府と前田家の間で紛争が起きる度に必ず政重が江戸へ出ていき幕府と折衝し話を付けました。前田家としては非常に功績のある重臣でした。本多政重は加増を重ね3万石から7万石の前田家の筆頭家老となりました。加賀本多家は家臣のほとんどは上杉家や直江家からの移籍組でした。上杉家と直江家の失業対策でもあったのでしょう。後に本多政重は前田勢を率いて大阪城の冬の陣で真田幸村の立て籠もる真田丸の戦いで真田幸村の計略に前田勢の前線部隊が引っ掛かり、前線部隊を救援するために出撃をして大敗を喫しました。父の本多正信や兄の本多正純は知略の人でしたが、政重は豪胆で武勇に優れた人でした。しかし知略も父や兄に負けないものを持っていたのですが唯一の汚点は真田丸の戦いでした。しかし幕府からも、またどの大名からも非常に評判が良く、前田家が生き残れたのも本多政重の政治力があったからでした。7万石の大身でしたが陪臣でした。しかし国持大名達も陪臣の本多政重には丁重に対応をしたと言われています。 P.S. 無事に終わって良かったです。さてこの様な儀式はいつ頃から始まったのでしょうか?別にケチを付けるつもりはありませんが、興味があります。日本書紀などに書かれているとのことですが、かなり現代の儀式と違っているのでしょう。天皇位を復活をさせたと言われる光格天皇(明治天皇の曾祖父)の時代でも無かったのでしょう。明治時代から新たに始められた儀式なのでしょう。昔は生まれて間もない皇子が天皇(?)の位に付いた時代が長く続いたのです。儀式なんて簡略化されていたでしょう。昔は一般的には天子と呼び、貴族は帝(みかど)や院(いん)と呼んでいました。天皇と呼ばれたのは第40代天武天皇(大海人皇子)が最初とも言われています。それまでは大王(おおきみ)と呼ばれていました。第119代光格天皇は第60代の冷泉天皇以来約900年間ほど途絶えていた天皇との呼び方を復活させたのです。その間は天皇とは呼ばれず○○院と呼ばれていました。しかし昨日の儀式で安倍がもう少しで寿詞を述べる前に大ドジをするところでした。当然編集ではカットでしょう。昭恵夫人は総理夫人ですがドレスコード違反だったようです。お付きの女性秘書官が付いているのですからドレスコード違反を当然注意をしたはずです。無視なのでしょう! ☆天皇は奇跡的存在、世界の主要国でエンペラーは1人だけ (2ページです) 皇室の存続を考えれば女性宮家の創設や、新しい宮家の創設、そして女性天皇を認める必要があります。男系に拘るのではもう物理的に無理なのです。昨日の皇居で行われた「即位礼正殿の儀」の皇室の方々を見れば女性ばかりです。すでに限界なのです。保守的な安倍政権下では真面な議論は行われないでしょう。皇室の存続に一番熱心なはずの安倍を中心とする日本会議が天皇制度を否定をしているかのように見えます。 今度は知恵を出す人がいないのでしょう。男系にこだわりすぎです。 ☆トランプの「裏切り」で事態急変 中東諸国におけるクルド人の歴史 (2ページです) トランプは完全に狂っているのです!クルド人は国家を持たない世界で最大の民族で総人口は2500万人から3000万人と言われています。元はオスマントルコ帝国の一部でしたが、第一次世界大戦でオスマントルコが敗れると、サイクス・ピコ協定に基づきフランスとイギリスとロシアによって引かれた恣意的な国境線により、トルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断されてしまったのです。クルド人は国家を作りたいのです。ユダヤ人がイスラエルを建国したようにです。イスラエルはクルドに好意的と言われています。それだけに中東ではイスラエルと並んで複雑な問題の中心とも言えるのです。クルドは欧米諸国が支持をしているシリアの反政府組織とは距離を置き、シリアの政府軍のアサド政権と手を組み、シリア国内でクルドの自治区を作る事で合意をしたのです。その後ろにはロシアがいるとも言われているのです。イスラム過激派のイスラム国(IS)の征伐に実戦部隊としてクルド人民防衛隊を欧米は使ったのです。クルド人民防衛隊は数千名もの戦死者を出してISを壊滅させたのです。そして今年10月6日にトランプは突然にトルコのエルドアン大統領との電話会談に直後にクルド人民防衛隊を標的にしたトルコによる越境軍事作戦について関与しないと声明をしたのです。トランプは昨年12月頃からシリアからアメリカ兵の撤退を言ってはいましたが、現実にアメリカ兵がトルコ軍とクルドの緩衝となっていたのです。それまではアメリカ兵とトルコ兵が協同でパトロールをする事でクルドとトルコの紛争を防いできたのです。トランプは国防総省に命じてシリアに駐留していたアメリカ軍の撤退を命令したのです。当然トルコ軍はクルドを攻撃をします。 資本主義を取り入れた統制経済は有り得ない話なのですが、それを中国は取り入れる事で急激な経済発展をしているのですが、中国共産党のNo.2の李克強総理も中国政府の発表する経済指数は全く信用をしないで、大学などの研究機関で発表した生の数字を元にしていると言われているのです。先に結論ありきは日本の安倍政権でも同じですが、そのスケールが中国では大きく違うのです。 その気持ちだけ頂きましょう!その資金で香港政庁と戦うためのマスクやヘルメットを買って下さい。 私の妻も昔から仕事をしていましたが、子育てが終わると本格的に働くようになり娘二人が結婚をして家を出ると、私よりも忙しく働くようになりました。介護が必要になったワンちゃん達の世話はお互いにスケジュール調整をして行うようになりました。ワンちゃん達が亡くなるとスケジュール調整は必要なくなりお互いに負担が無くなりました。 何とか巻き込まれないようにしないと大変なことになります。なぜ出さなければいけないのかが私には理解が出来ません。トランプの火遊びのような思いつきのマッチポンプに巻き込まれたくはありません。 安倍夫婦の犯罪は守られるべきと考えているのでしょう。犯罪は犯罪なのですが! そんな事があったのですね!まあ権力闘争では普通に起きることです。 ☆「慶應」学閥絶対王者に異変、群れない「早稲田」の起業家OBは結束 (3ページです) 私も慶應の学閥に何度も助けられてきました。私は昔から群れるのは嫌いでしたが慶應閥は独特でした。いまだに地域の三田会には入っていません。
by shata3438
| 2019-10-23 07:30
| 写真と政治経済
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